またまた雪の日
週末になると大雪。
しかも今日はバレンタインデーなのに。
ま、しょうがないですよね。
家であったかくしてテレビでオリンピック観戦、という方も多いでしょうね。
ジャンプでもフィギュアでもないけれど、この間JJさんが紹介して下さったエピソード、マイケルらしい話だけど、しかも何人もの人にそんな事があったんだけれど世間一般にはあまり知られていない話、JJさんにも許可をいただいたのでシェアさせていただきます。
「私は15歳だった2000年に、珍しい型の骨肉腫と診断されました。
その年の8月に化学療法を始めることになっていました。
知っている人は多くはありませんが、マイケルは誰もが訪れ遊園地を楽しめるように
1年に何度か、ネバーランドを開放していました。
なにもかも無料でした、、乗り物に乗ることも、ゲームをするのも、食べることも。
ネバーランドによく行ったことのあった私の友人がある夜、
その年の8月初めの2週間、遊園地が開放される予定だと教えてくれました。
私は、化学療法を始める前の週に連れて行ってほしいと両親に頼みました。
医師たちは皆、私の体調が思わしくないことが心配だと言い反対しましたが、
私はそのことを両親に話しました。
私たちは、ネバーランドの門をくぐりぬけると
遊園地に辿りつくために何マイルも車でいかなければなりませんでした。
私たちが車で曲がりくねった道を降りていくとき
今でも説明できないような何かが私の上に降りて来ました。
それは平穏感のようなものでした。
家族と車から降り、誰かとともにチェックインすべきなのか
どうしたらいいのかわからないでいると
男性が私たちの方に歩いてきて、自己紹介をしました。
そして、私の両親にすべての動かし方を説明をしました。
私たちは自分たちの名前をサインし、他の案内を受け、リストバンドをもらいました。
その男性は、乗りたいものに乗り、食べたいものを食べ、
どんなゲームでも遊べるのだと言いました。
時々マイケルが外に出てきて、みんなにあいさつするのだとも。
両親がその男性にお礼を言った数分以内には、私は父と一緒に大観覧車の頂上にいました。
私たちはそれに連続して3回乗りました。
綿菓子やポップコーンをもらう列に並ぶ前に、私たちは何時間も乗り物に乗りました。
私たちはお菓子を持ってテーブルに座っていると、
子ども達がある方向に向かって走っているのに気付きました。
私はテーブルのイスの上に立ち上がってみましたが、何も見えませんでした。
数分後、その子ども達が私たちの方に向かって移動し始めました。
そこにはマイケルの姿がありました。
子ども達が腕や足を引っ張り、抱きついたまま、大きな傘をさして立ち、笑っていました。
母は私の手をつかむと、彼の方に向かいました。
私たちは自己紹介をして、母は彼にとても素敵な時間を過ごしていると伝えました。
そして、私のガンのことや、来週から化学療法を始めることをマイケルに話しました。
母の言葉を聞くと、マイケルは私の頭に手を置き“”God Bless you”と言いました。
彼が私に触れた時、私たちがネバーランドのゲートをくぐった時に感じたのと同じ
平和と安らぎのようなものを感じました。
彼はそこで2分ちょっと私たちと話をし、彼は去りました。
私は家族や子ども達と乗り物に乗り続けましたが彼に会えたことが頭から離れませんでした。
夜帰るとき、私たちが到着した時に話をした男性が父を呼び止めメモを手渡しました。
そのメモはマイケルからで、私たち3人を彼とのディナーに招待すると書いてありました。
迷うことなく父はその招待を受け
その男性は私たちを母家へと続く別のゲートへと案内しました。
家の正面に到着するや否や、私は驚きました。
大邸宅だと思っていましたが、そうではありませんでした。
小さくはないのだけれど、大きくもありませんでした。
私たちが外に到着すると、彼に仕える数人の人たちが私たちを迎えてくれました。
私たちはその夜、マイケルと彼の子ども達と一緒に夕食をとりました。
この日は私の人生で最高の夜になりました。
夕食の後、彼は両親に、一緒に祈ってもいいか尋ねました。
彼らは当然イエス、と言いました。
私はそれまでも、そして今までも、彼がしたような祈りを聞いたことはありません。
私をその祈りに涙が出ました。
彼が祈りを終え、目を開けると、両親も涙を流していました。
その後マイケルは、その日見ることができなかったいくつかの場所を案内してくれました。
彼は私たちに、ゲームコーナーや映画館を見せてくれました。
ネバーランドの映画館は、よくある映画館ではありませんでした。
本物の映画館にあるようはシートだけではなく、
病気で起き上がれない子ども達のためのベッドもありました。
案内をしてもらった後、私たちはマイケルにさよならを言い
すべてのものに感謝のきもちを伝えました。
数日後、母が彼からの電話を受け取った時の彼女の驚きようを想像してみてください!
彼は、私たちがネバーランドに到着した時に書き込んだサインから
私たちの電話番号を得たのだと思いました。
彼は母に私がどうしているのか尋ね、母は彼に月曜日に化学療法が始まると話しました。
彼は直接彼に繋がる電話番号を母に伝え
週の中ごろに私の様子を電話で教えるよう頼みました。
母は同意しました。
私は月曜日の朝、化学療法を始めるために病院に行きました。
医師が病室に入ってきて、両親に座るよう言いました。
私たち3人は、ガンが広がったと言われるのではないかと心配になりました。
彼らは、治療を始めるために、2日前にCTスキャンと血液検査をしていたのです。
医師は両親を見て話し始めました。
“これをどう言ったらいいのかわかりません。
これの説明の仕様がないのですが、、、ガンが見当たりません。
私たちが撮影したどの画像にも、その傾向がないのです”
母と父と私はそこに座り、ただじっと彼を見つめていました。
そして、ついに母は号泣してしまいました。
私たちは病院を後にし、家に着くと母はまず最初にマイケルに電話をしました。
彼女は電話を握ってまま泣いていたので困惑していると、母が私に電話を手渡しました。
同じように、彼も明らかに泣いていました。
マイケルは何年も私たちの家族と連絡を取り続け
1年に何度も挨拶をするために電話をくれました。
プレゼントやカードを送ってくれました。
もう10年、私はガンから解放されています。
ネバーランドに行ったときに一体何か起きたのか、私には説明できません。
ネバーランドに行った後、重い病が回復したのは私だけではありません。
そういう話は決して公にされませんでした。
なぜなら、マイケルがそれを望まなかったからです。
彼は素敵な人でした。
子ども達だけではなく普通の人たちにもあんなにもやさしい人に
私は会ったことはありません。」
Michael Jacksonを語らせて!