2011年の終わりに
今年もあと1日。
激震が襲った年でしたね。東日本に大きく。
そして、人知れず、個人の家庭にも…。
なんとか寄り添いたい、と願いながら、何の役にも立てず…の自分がいます。
でも、この2年間で
[あきらめないこと]
の大切さを学んだ気がします。
勿論、マイケルに、です。
最近、アメリカの作家ウィラ・スティルウォーター博士という方が、マイケルの研究本[M poetica]というものを出されました。
マイケルの曲やショートフィルムを徹底的に研究し、深く掘り下げて検討し、読者に対してマイケルの芸術性と、その人そのものに対する新鮮かつ洞察力に富んだ新しいアプローチを提供してくれています。
その上、MJFC(ファンクラブ)にその内容についての特別寄稿までしてくれて…。
勿論、英語ですが、MJJFCの人がちゃんと日本語に訳してくれています。
長い長い寄稿文。
夢中で読みました。
同じくファンのIさんにさっそく読んでもらうと、
「身体の真ん中をズドーンと撃ち抜かれたような」
衝撃を受けたそうです。
知ったつもりでいた事が、まだまだ浅かったと、私も思いました。
アメリカでの人種差別がどんなものか…。
そして生涯かけて、どんな方法で闘っていたのか…。
全文は長すぎてとてもご紹介できませんが、その13分の1、最後の文だけ載せさせていただきます。
又、時間のある時に読んでいただいたらいいですよ(^-^)
そして、昨日の記事で、アムネスティ・インターナショナルが設立50周年を記念して、人権問題について考えるきっかけとなった人物についての調査を投票形式で行っていて、現在、マイケルがトップだそう。
無駄になっていないことが嬉しいです。
ジャクソンと彼の作品を調べれば調べるほど、彼が途方もない勇気の人であり、深い心理学的洞察を持ち、社会の変革に猛烈に熱心で、最も困難な時期にさえひねったユーモアをもち、体の芯までアーティストである、ということを私は確信する。彼はアートとアートの改革の力という観点ですべてを見ていた。私たちは世界を直接見ることはできない・・・私たちは自分のセンスと認識を通じてのみ世界を見ることができるに過ぎない・・・そして、アートには、そのような認識に挑戦し変革する力がある。それは途方もないパワーであり、ジャクソンは同時代のどのアーティストよりもそのことを良く理解していた。
例えばジャクソンは、白斑の症状が次第に悪化していく中、患い始めの数年間そうしていたとメーキャップ・アーティストのカレン・フェイが言う様に、死ぬまで白い斑点を暗いメーキャップでカバーすることだってできたはずだ。あるいは、全てを明らかにし、最小限のメーキャップで、白斑への認知と処置についてのスポークスマンにもなれたはずだ。しかしそうはせずに、彼は白斑へのアーティスティックな回答を作り上げた。それは人種とアイデンティティについての私たちの最も基礎的な信念に挑戦するものだった。そしてそれは、それがどういうものか私たちが評価し始めてもいない手段を用いて、私たちと私たちの文化を変えたのである。
同じようにジャクソンは、彼が児童虐待者だという一般大衆の認識に対して、それを無視することで、あるいは超然としようとすることで答えることもできたはずだ。重要な信念に反して彼がどのようにして問題を無視しうるかを見ることは辛いことではあるが・・・。あるいは一般大衆の目から完全に引退して、彼が以前には決して持つことができなかった新しい家族とともに居心地の良いプライベート・ライフを楽しむことだってできたはずである。しかしそうはせず、彼は物事の見方自体の土台を揺るがすアーティスティックな回答を作り上げた。そして私たちの世界に対する見方、解釈の仕方、理解の仕方についての最も基礎的な前提というものに対し挑戦するのである。
これは一人のパワフルなアーティストによる仕事なのだ。
(終わり)