未来の子どもたちから…

2014年8月4日(月) ブログ
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イコマレイコさんというイラストレーターの方がいらっしゃいます。

東京にお住まいのようですが、やはり2011.3.11の原発事故以来、心の中にパニックを抱え、絵も描けずひたすら情報を求める毎日の中で小出さんに出会い、平衡感覚を取り戻した人の一人です。

講演や著作物、その中でも2011.9月に出版された、小児科医黒部信一さんとの共著[原発・放射能 子どもが危ない]を読まれ、特に最後の方の文章を読んで
(ガーン‼︎)
ときたそうです。
(こんな人がいたんだ!)と…

それからは、たびたび大阪府泉南郡熊取町にある京大原子炉実験所へ足を運んで(東京から、ですもんね、スゴイ)は小出さんの絵を描き、話を聞き、それをフェイスブックで拡散する、という活動をしておられます。

私ももちろん その本を買って読みました。

どなたにも読んでほしいと思いますが、なかなか読んでいただけないと思いますので、最後の方、抜粋します。

「太郎、次郎、三四郎

  私はこれまで、3人の息子を迎えました。太郎、次郎、三四郎です。
次郎は先天的な障害を背負って産まれてきました。生物体としては弱い存在で、残念ながら私は、次郎を守り切ることができませんでした。
弱い者に対して、世界はほんとうに残酷なのです。
  しかし、せめて社会的な面、つまり私たち大人が責任を負っている社会のありかたの面では、弱い者に対する差別や抑圧をなくしたい、と思います。
そしてそれは本来、自分の子どもに対してだけではなく、世界中の、あらゆる弱い者たちへの行動でなければならないと思います。
            後略」

「未来の子どもたちから問われること

  ドイツに、マルティン・ニーメラーという牧師がいました。第一次大戦末期には、Uボートの艦長をやっていたという珍しい経歴の牧師でした。
  その頃、ナチスがどんどん力を得てきて、共産主義者を弾圧する、社会主義者を弾圧する、マスコミを弾圧する、学校の教師たちを弾圧する、と弾圧の輪を広げていくわけです。
そして、ついにニーメラーも投獄されダッハウの収容所に入れられますが、最後まで生き延びて奇跡的に解放されました。
  戦争が終わって、妻とともにダッハウの収容所に行くと、そこに看板が立っていました。
「この場所で1933年から1945年までに23万8756名の人間が殺された」
と書いてあるのです。

  自分もずっと投獄されていたのですから、その人たちを助けることは不可能だったのですが、それでもニーメラーは強烈な罪悪感に囚われるのです。
  つまり、自分は投獄される前、どうやって生きてきたか。
共産主義者が弾圧された時には不安だった、社会主義者が弾圧された時も不安だった、マスコミ関係者が弾圧された時も不安だった。しかし自分はそういう立場にいなかったから、何もしなかった。
そして最後に教会の関係者として自分が弾圧された時には、もうすべてが遅かった。それを彼は悔やむわけです。
歴史の流れにちゃんと自分が責任を取れたか、ということを考えると、自分は要するにそう生きてこなかったと。

私は、未来の子どもたちから、つまりこれから被爆をしながら生きていかなければならない子どもたちから、
「お前はどうやって生きてきたのか」
と問われるでしょう。

  私だけではなく、きっとみんな問われる。それに気がつくかどうかはわからないけれども、みんな、未来の世代から問われるはずです。
「お前はどうやって生きてきたのか?」
  その時に、自分は負けたかもしれないけど、こうやって生きたと言えるように、私は生きていきたいと思うのです。

最後に、ひとつだけ。

「子どもを産んでも大丈夫でしょうか?」
  そんな質問を最近よく受けます。
福島の事故が起きてしまい、子どもを作ることをためらっている方が大勢いらっしゃるようです。
  しかし、子どもというのは、どんな時代だって、どんな社会だって、生まれてきたし、育っていくのです。
戦争の最中でも、奴隷貿易時代のアフリカでも、今だったらたとえばパレスチナだって、子どもは産まれて育つのです。

  ですから私はこう答えます。
「もし、子どもを産みたいと思うなら、ためらわずに、産んでください」